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Dance New Air 2020->21

「セーファーセックスを発明したみたいにパーティのやり方を発明しないといけない」。『INOUTSIDE』の「Salon de V 第二夜」トークで発せられた言葉は、いまだくすぶるウイルスの脅威にさらされる上演系芸術にひとつの指針を与えるように思われた。いまだ想像しえないパーティの発明がダンスになる。そのとき、少なからぬ観客を戸惑わせたであろう武本拓也の「歩行」をはじめ、父性としてのダンスを批判的に捉え直すハラサオリ、身体なき時代のダンスに果敢に挑戦した木野彩子、ジャンルの枠を超えて身体から生まれる関係をラディカルに問い直すDNAのプログラムは、再始動するポストコロナ状況に新たなダンスの場をつくりだすための種になるだろう。

渋革まろん / 演劇批評

ダヴィデ・ヴォンパク / 川口隆夫 / ふくだぺろ『INOUTSIDE』

川に立つ男と高速に立つ男がいる。
人は水に入り、水は人に入る。水は人と環境のあいだを巡って命を支えるものだ。
人が車の流れに入るとき、死の危険が伴う。車とはなによりも内部の安全を保つ鉄塊だから。
人はそうとは知らずウイルスの中にいて、ウイルスは人に入る。それは時として人を守り、人を滅ぼすだろう。
『INOUTSIDE』とは、不可視のウイルスの中で、人間と世界のあわいで生じる出来事を認識するためのレッスンなのである。

山本貴光 / 文筆家・ゲーム作家

武本拓也『山を見にきた』

その場所をゆっくりと歩む武本氏からあたたかさを覚えた。彼が空間に残していくいくつもの残像から時が過ぎていくのを感じ、数え切れない美しい瞬間をできるだけ繊細に記憶したいと願った。それは、自然の中にいるときにわたしが感じる感覚だった。タイトルに惹かれて会場に向かったが、まさか自身が山を見るように、パフォーマンスを通して心が晴れやかになる感覚に陥るとは想像もつかなかった。最小限にとどめた身体表現で構成された世界は、わたしたちの生命の存在を確かめるかのようでまさに極上の時間であった。

小㞍健太(Dance Base Yokohama) / 振付家・ダンサー

ハラサオリ『Da Dad Dada』

ハラサオリさんの公演は、ダンスの可能性を広げてジャンルの壁を華麗に飛び越えるようなものでした。昭和と令和の時代間も自由に行き来していました。身体表現は踊るというだけでなく、声を使って語るのもそうですし、もっと広義的に人生そのものがダンスなのかもしれない、と感じました。

辛酸なめ子 / 漫画家・コラムニスト
不在の実感を確かめる行為。舞台上、亡霊のように失われながらも重なる2人の身体。そして舞台装置としてのダンサーたち。復讐であり愛でもあったハラサオリのドキュメンタリーが、舞台というフィクションの場で展開されて、新しい現実を作り出していく。2つの東京五輪、お互いに同じ年を迎えた親子のDNAと、戦後日本史が淡く交差していく。自分史を深く掘り下げた「セルフ・ドキュメントパフォーマンス」は、公演を重ねていくことで、新しいダンスの歴史を刻んでいくだろう、と思った。

蓮沼執太 / 音楽家

ヤスミン・ゴデール『Practicing Empathy #3』

ヤスミン・ゴデール25年ぶりのソロ作品映像を見ていてうれしい気持ちになった。コロナ禍で過ごしてきた時間、その中でどのようにこの作品が生まれてきたかを観客に語りかけるところから始まり、ふと踊り出す。その踊りは彼女の心の内や過ごした景色までも引き連れてくる。彼女の踊りは語りかけで、歌で、詩で、音楽で、遊びで、まぎれもなくダンスだった。一見ジムナスティックに見える「ミギッ!ヒダリッ!ミギッ!ヒダリッ!」と繰り返しつま先で踏むステップと動きも大好きだ。繭のイメージに導かれたこの作品は次の何を孕んでいるのか。ヤスミン・ゴデール作品を生で見られる日が待ち遠しい!!

岩渕貞太 / 振付家・ダンサー
楽しみにしていたヤスミン・ゴデール。映像上映ではあったけれど、舞台の仕様をそのままに上映されたそれのおかげで、スクリーンに映る身体を等身大にして目の前に居るような想像をしながら見ることを愉しんだり。
約130分、3つの”Practicing Empathy”を見る中で、今も自分の身体に残る感覚は、励まされて気持ちが元気になった感じ。ソロを踊る彼女の佇まいや肉の感じ、道を踏んで弾む身体、家族とのダンスから零れでるエネルギーにいちいち励まされた。おんなの身体。ただ単純に私もあんな風に年を重ねていきたいなと思って胸が躍るような気持ちで家路に着いた。

関かおり / 振付家・ダンサー

チジャ・ソン『Landing on F eathers』

人間行動学は「じゃんけんぽん」「どっこいしょ」など複数の人間による動作をスローモーションで見るとシンクロへ向かう相互作用が存在することを明らかにした。(参照:細馬宏通 著『介護するからだ』)まるでダンスのよう! チジャ・ソンの作品『Landing on Feathers』では、半身不随のあるアーティストとケアワーカーでもあるアーティストたちとのスローなセッションを展開し、その相互作用を「共生」として観客に見えるものにした。まるでダンスのように!

澤隆志 / キュレーター

木野彩子『ダンスは體育ナリ?』其の三

多角的な視点から、ダンス、オリンピック、身体、宇宙、生と死を、ユーモア交えつつ豊富な映像資料でレクチャーしているところからするっと抜けて踊り出す木野さんは、観客を自然に論理と想像の世界を行ったり来たりさせる。
プラネタリウムに投影される星が溢れる果てしない宇宙と、何もない地平線で踊る彼女の細い肢体の対比に、宮沢賢治のまづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて 無方の空にちらばらうの言葉が巡り、私達は地球上にいる多様な生物の一つにしか過ぎず、素粒子に戻れば全ては同じもので、互いに影響を与え合ってこの宇宙を成していることを愛しく感じさせてくれました。

湯浅永麻 / 振付家・ダンサー
タイトルが気になって、木野彩子のレクチャーパフォーマンス『ダンスハ體育ナリ?』其ノ三を観にいく。ダンスが体育に組み込まれたところから始まって、彼女のレクチャーは前回の東京オリンピックや大阪万国博、今回の東京オリンピック、パラリンピックと続いていくのだが、実際に鳥取大学で教える木野の話術やチャーミングな声の力もあって、説得力に満ち、終始頷きながら聞き入っていった。だからだろう、後半、私たちは唐突にも、広大な宇宙への旅へと連れ出されていくのだが、それも自然な流れとして素直に受け止めることができた。新型コロナウイルス感染症パンデミックに翻弄される私。138億年もの時空に広がった宇宙。オンライン上には存在し得ない、このちっぽけな、しかし確かに実在する私という身体。今、目の前で踊リ始める木野彩子という身体。思わず、自分の肩をまさぐってしまった。
毎年、こんなふうに新しい風を送り込んでくるDance New Airという試みに、この夜、私は深く感謝した。

芹沢高志 / アートディレクター、都市・地域計画家

ダンスショウケース アオイツキ / やまみちやえ×安部萌 / 清水舞手(SHIMIZU MASH) / 橋本ロマンス

1995年にHIV感染による敗血症で他界したダムタイプの古橋悌二。
ダンスショーケースを観劇中に彼が呟いていた事が頭をよぎった。
「日本のダンス作品って遅れてるよね」
そんなこと言われたら、ビビる。
時代を切り拓いていく画期的な発明が日本のダンス界から産まれていない。
という意味か。。
いや、眼前で繰り広げられている作品がそうだって事じゃない。
この若者たちは古橋が他界した1995年~ゼロ年代に生まれてきた。
生まれた時からデジタル世代、画面の中で表現する事はお手の物だろう。
しかし囚われの身から解放されたかのような
コロナ禍で萎んでいた身体から放つエネルギーは正に「生きている」だった。
90年代はやっとの思いでセクシャリティーをカムアウトしていたが、
今はサラッと舞台上に多様性が乗っかっている。
他者との関わり、違和感、不気味なるものへの恐れ、追い詰められる精神、孤独を乗り越え、 
果敢に人の波へDIVEし人間性の進化を発明しようとしている。
分断とは真逆に見えた。

SNATCH / 砂山典子 (dumb type / THE OK GIRLS)

ダンスパフォーマンス@展覧会 柿崎麻莉子

柿崎麻莉子のダンスは、身体を通して内なる感情を可視化するものだと感じる。特に喜びという感情が具体化する姿は、身体表現としてのバランスやスピードやフォルムという美意識とは違う幸福感というものを観ている人に伝えてくる。ダンスという身体と感情を繋げて創造するメッセージが、柿崎麻莉子の作品ではとても幸せな体験として私には伝わってきた。

minä perhonen 皆川明 / デザイナー
「色は喜び」を掲げた展覧会「SPREAD by SPREAD 明日は何色?」の場で柿崎麻莉子さんのコラボレーションパフォーマンスが行われた。
空間、舞い、音、光、声、感情、そこに居合わせた多様な要素が混じり、立ち現れた特別な時間。
たくさんの「色は喜び」をすくい上げ、柿崎麻莉子の身体の動きはその場を「色は祝祭」に昇華させてくれました。
その場にいた者の多くが涙を流し感動し、気持ちが浄化されたような状況でした。
思考に柔軟性を与えてくれたことに、心から感謝しています。

SPREAD(山田春奈 + 小林弘和) / クリエイティブユニット